まほらの天秤 第2話 |
チリーン チリーン 遠くで涼やかな鈴の音が聞こえた気がした。 視界は暗闇に覆われていて、何も見えない。 そんな中、小さな音だけが聞こえている。 チリーン チリーン その鈴の音は、次第に大きくなってきた。 こちらへと、近づいてきているのだ。 チリーン チリーン 心の中に染みいるような、優しい音。 やがて音はすぐ傍まで近づいてきて、そして、止まった。 静寂が辺りを包む。 音の途絶えたすぐ傍に、何か生き物の気配を感じた。 このまま意識を手放すつもりだったのだが、その音と気配が気になり、僕は重い瞼をこじ開けることにした。 震えながら開く視界の先に、ぼんやりと白いものが浮かんで見える。 暗闇の中に、浮かび上がる白いもの。 それは、白い狐のお面だった。 懐かしい、日本で幾度か見たことのある、白い狐の面。 目を閉じたようなデザインのそのお面は、僕を見降ろして嘲笑っているようで、ああ、僕を迎えに来た死神なのか。と思ったのだが、どう足掻いても死ぬことのできない自分の元に、死神など訪れるはずはないと思わず自嘲した。 声を出したつもりはなかったのだが、闇に浮かぶ狐の面は、僕に意識があることに気がついたらしく、その白い顔をこちらに向けた。 チリーン 動きに合わせて、再び綺麗な鈴の音が響く。 猫に鈴は聞いた事があるが、狐の面に鈴は聞いた事が無い。 そんなどうでもいい事を考えていると、冷たく衰弱しきったこの体は、僅かに残っていた意識を深い闇の底へと引きずりこんだ。 ステンドグラスから注ぐ光が、礼拝堂の中を明るく照らしていた。 清浄な空気に包まれたその場所には、十字架の前に膝をつき、神に祈りをささげる修道女の姿があった。 この場所の主である彼女の祈りを妨げないよう、気配を殺し、音を立てることなく礼拝堂の中ほどまで足を進めると、修道女はすっとその顔を上げた。 こちらを背にしている為、その表情は解らない。 だが、先ほどまでの慈愛に満ちた静かで温かい空気が一変し、冷ややかな空気が辺りを包みこむ。 この気配で、彼女の感情など顔を見ずとも解った。 「来たか、ゼロ」 彼女はこちらを振り返ることなく、そう言った。 「久しぶりだね、C.C.」 形式的にこちらも返す。 どちらの声にも感情は見られない。 冷たく低い声だった。 すると、彼女は修道女には似つかわしくない声音であざ笑った。 「違うな、間違っているぞ。ゼロならこう返すべきだ。『呼んだのはお前だ、C.C.』と。『久しぶりだね』などとゼロは言わない。言うはずがない」 それでゼロを名乗るなど、片腹痛い。 彼女は冷え冷えとした口調でそう言った。 「・・・久しぶりだなC.C.。私を呼び出す程の事でもあったのか?」 彼女の挑発には乗らず、それでもゼロとしての言葉を口にする。 今度は及第点だったらしく、彼女はその言葉を訂正する事はなかった。 「世界から、戦争が消えて既に60年の月日がたった。魔王が死んで、もう60年だ」 かつて自ら魔女と名乗った女性は、十字架を見上げながらそう言った。 世界から争いは消え、話し合いという形で対話を続ける平和な世界。 それが、60年。 世界はそれだけの時を刻んだという事だ。 彼女はゆったりとした動作で立ち上ると、こちらへと顔を向けた。 相変わらずの無表情。 あの頃と違う事と言えば、彼女の体は確実にその歳月を刻み、齢70を既に超えたその体は、老齢な女性のものとなっているという事だろう。 深い皺の刻まれたその顔は、祈りを捧げている間は慈愛に満ちた聖母のごとく穏やかなのだが、今は感情を読み取ることさえできはしない。 声もその年齢に相応しくしわがれているというのに、その力強さはあの頃と変わらなかった。 嘗ての魔女は、冷ややかな視線を向けた。 嘗ての死神は、その視線を静かに受け止める。 「私も間もなく消え去るだろう」 冷たい声音で彼女は言う。 言われなくても、70を超えた彼女の老い先が短い事は解っていた。 だからこそ、彼女の呼びかけにこうして従ったのだ。 嘗ての共犯者との最後の対話のために。 「私が消えれば、ゼロ・レクイエム、そしてゼロの真実を知る者は、お前だけとなる」 お前一人だけに。 すでに他の者達はCの世界へ旅立っていた。 彼らの血筋はこれからの世界にも残るが、ゼロの真実を知るものはいなくなる。 たった一人残される苦しみを知る嘗ての不老不死者は、淡々と事実を口にした。 その言葉は、嘗ての死神の心を抉るためのものか。 偽りの英雄に対する口止めか。 そのどちらもなのか。 「心配する事はない。私が語るべき過去は一つしかない」 淡々とした口調で、そう返した。 英雄と呼ばれるべき賢帝を悪逆皇帝としてこの世界に捧げる。 それ以外に語るべき過去など存在しない。 その言葉に、魔女であった老女は、当然だという様に口元に笑みを浮かべた。 「まだ世界は英雄ゼロを必要としている。ぼろは出すなよ」 もう、私は消えるのだから。 ゼロを騙る男を凪いだ瞳で見つめていた老女は、突然その表情を改め、悪逆皇帝以外には見せなかったであろう穏やかな笑顔を浮かべた。 慈愛に満ちたその笑みは、あの澄み渡った青空のもと、彼が見せた笑顔を思い起こさせ、偽りの英雄は僅かに動揺をした。 「これから続く永劫の地獄の中で、もしお前に、この世界の全てを許せる時が訪れたのなら、お前の地獄は終わりを迎えるかもしれない」 まるで謎かけのような彼女の言葉。 その言葉にも、知らず動揺した。 「それは、この不老不死の身が終わりを迎えるという事か?」 「いや?お前が誰かにその呪いを押し付けない限り、お前の呪いはお前のものだ」 死ぬことなど、あり得ない。 コードはこの世から消える事はなく、人から人へと伝染し、移動するのみ。 「ならば私の地獄が終わることなどあり得ない」 死を望んだ嘗ての死神は、永遠に生きるという地獄から出る事は叶わない。 成人を迎えることなく時を止めたその体は、永遠にその状態を維持し続けるのだ。 「この世が地獄か天国かなど、気の持ちようで変わるものだ。とはいえ、世界を、何より悪逆皇帝を憎悪している今のままでは無理だろうな」 そう、不老不死という地獄の中にあっても、幸福に生きる道がある。 それを知っていても、私はその道よりも死の果実を選んでしまった。 彼女の言葉は冷たいが、その声はどこまでも穏やかだった。 「言っている意味が解らないのだが」 その言葉に、老女は口元に嘲笑するような笑みを浮かべた。 何も語ること無く、全ての悪を背負い死んだかつての主を、未だこの死神は恨んでいるのだ。何も語らず、言い訳一つすること無く、全ての罪を背負ったことを。 自分に助けを求めなかったことを。 そして、そんな悪逆皇帝を罵り続ける世界も、憎んでいるのだ。 だが、そのすべてを許せる時が来たのなら・・・。 「どうせこれから長い時を生きるのだ、せいぜい考える事だ」 彼女は再び昔のような魔女の笑みを乗せ、そう言った。 それが、彼女を見た最後の姿だった。 |